2011年04月18日
ナウ&ゼン②

Then.
これは僕がサバイバルゲームと出会って1年ほどが過ぎたころ、'98年夏ごろの写真です。
左の人物は、僕にそのきっかけを与えてくれたひと。そう、ロッキーさんです。
当時の僕は、横浜にあるTV局でディレクター/プロデューサーを務めていました。
ディレクターがカメラを持ち、カメラの前に立ちコメントし、それを編集して
オンエアするという、今ではさほど珍しくないものの当時としては異端の方法論で
音楽とサブカルチャーを結びつけるような番組を作るべく奮闘していました。
当時のADさん(今では有名バンドのライブを撮るような一流のDです。)の紹介で
ロッキーさんに会ったのは’97年の夏ごろだったと思います。
当時「FENロッキー」というお店と、サバイバルゲームの森「ペンギン村」を運営していた
彼は、トイガン業界では有名人。ロケに際して東京マルイの広報部とアームズマガジン編集部を
紹介してくれました。
番組は大好評で、あまり間をおかずに人気のロックバンドを招いた第2部も作ったくらいです。
オンエア後もしばしばロッキーさんから電話がくるようになります。
お店に遊びに行くようになったり、お酒の席に招かれたり。
「カントク!」と呼ばれるのはこそばゆい気持ちでしたが・・・・。
もともと中学生のころからタミヤの1/35にハマっており
LSのプラモデルガンや東京マルイの「作るモデルガン」、マルシンのキットなどに親しみ
そこそこのマニアでもあり、既に電動ガンも数丁持っていた僕でした。

これは''92年ごろ、ロスのLAガンクラブで.45を片手の若きスミソン。
そんな僕がサバゲーにハマるのにはさほど時間はかかりませんでした。
正直、めんどくさい人もいるなあ、と思いました。かつてのサバゲーは、良くも悪しくも「濃い」
人が多かったように思います。
しかし、yo!務員さんやcoyoteさんのような、一生ものの先輩を得たのもペンギン村でした。
しかし、当時の運営は非常に「ゆるい」ものでした。
フラッグになるものが毎回違う。腕のマーカーはビニールテープだったりガムテープだったり。
エントリーもノートに線を引いて、毎回記入事項が違ったりしました。
計時に至ってはゼンマイ式のキッチンタイマー、つまり「だいたい」だったのです。
当時、今からは考えられないような神経質で完全主義者だった僕は、それに違和感を感じていました。
塩ビ板を丸く切って木にくくりつけるフラッグを作ったり、エントリーシートを作ったり
デジタルタイマーを買って来たり。

おなじみのフラッグ。この中には当時僕が切り抜いた塩ビ板そのものが入っているのです。
そのころはまだ、千葉にこれほどたくさんのフィールドはありませんでした。
アームズマガジンはもちろん、コンバットマガジンや成美堂ムックの取材も度々入り
参加人数が100人を超えることもしばしばでした。
つづく。
Now.
実は一昨日、僕とyo!務員さんは別々に旧城山フィールドを見に行っていました。
桜が美しく咲いていたのは救いでしたが、3/26-27、突如出現した「Field of dreams」は
その痕跡さえもありませんでした。
いや、僕たちは目をつぶるだけで、あの場所に行けるのです。
ゲーム中の各シーンの思い出とともに。










この日のフラッグゲッター@ハンドガン戦の勇士たちです。
つづく。